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- 作者: クリス・アンダーソン,小林弘人,高橋則明
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2009/11/21
- メディア: ハードカバー
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WIREDの編集長クリス・アンダーソンが2009年に出版した本。
この頃には既にFaceBookが出ていて、リーマン・ショックがきていて
オンライン・ゲームが盛んにこの界隈(フリー)では伸びていて、音楽業界が『著作権の保護』にかなり力を入れてきているあたりだと思う。
そもそも『FREE』の文化を生んだのはP2Pだよね。
私が高校生の頃は、もっぱら『MATRIX リローデット』をWinnyを使っていち早く無料で見た奴が勇者だったと思う。
iPodが出始めたのが私が高校生一年か二年生のときだ。
『FREE』の定番のような、ネットゲームなどはいわば黎明期から全盛期への移行期で、動画ではニコニコ動画といったネットサービスが大いに伸張していた時期だったと思う。
このあたりから、『FREE』という概念がアングラなものからオープンでクールなものへと移っていた印象がある。
私はこの世界から離れてしまって、もう一般の社会人としてサラリーマン生活を送っているけれど
この本来“アングラ”だったはずのものが、無視できないほど大きくなって何か違うものになってしまった感じを受けたのは、やはりニコニコ動画とFaceBookの印象が大きかったと思う。
なんだかんだいって、この両者とも創業者はアングラ出身の、要するにヲタクたちの塊だったのだ。
だけど、今はビジネス界やはたまた政治界隈がこの二つとこのふたつの業界が属する文化である『FREE』に大きく注目している。
昔、とても言い得ていて妙だなと思ったヲタク文化の表現があって、詳しくは思い出せないのだが以下のように記憶している。
「本来ヲタクを取り巻く世界というのはもっとごたごたしていて薄暗く、閉じているものだったはずだが、いまやこの世界はショーウィンドウに飾られて透明なガラス張りの壁で仕切られた世界になってしまっている。それはさながら、秋葉原というよりはむしろ六本木や渋谷のような文化に近い」
ちなみに私は残念ながらヲタクではない。
(※リア充でもないけど)
社会の2割がいわゆるリア充とか勝ち組とか言われている人たちとして、その対になる2割がヲタクということになるはずと思うが、私はそのどちらにも属さないその他の六割ということになると思う。
だから、『フリー』がビジネスで用いられるキーワードであれ、あるいはヲタク文化を支える何らかの概念であるとしても、私はいずれにも属さぬ単なる受益者や傍観者になってしまうと思う。
だが、その上でやはりいくつか思うことがあった。
『FREE』の本質は格差だ
ネットゲームをやっていたから分かるのだが、おおむねこういうコンテンツの最後の行き着く先は、対人戦かアバター育成と装飾のどちらかに終着する。
終わりなきこの二つのコンテンツにおける最終的な勝者は結局のところ“課金者”である。
単に『FREE』で客引きをして一部のマーケットを牛耳ることに成功するか否かでしかない。
プロダクトローンチで有名な与沢さんもそうだし、楽天や一人(薬の販売で有名な人)といった人なども口をそろえて言うことだが、集客やマーケティングの最終的なポイントはお客を囲いこんで女王を牛耳ることで、どちらかというと宗教に近い。
ビジネスの最終的な形態は貧困ビジネスで、形態としてはそれは宗教に近い。
知らない奴と知ってる奴の差を明確につけることと、厳格な階層社会をきっちり作ることで役割分担をしてしまうこと。
階層ごとにロールモデルをきっちりと作って、各人がそのロールモデルをきっちりと演じるためのしっかりとした内的動機付けを与えてやること
例えばそれは承認欲求を満たしてやることだったり、ある種の自己実現の手段としてロールモデルを提供することであったり、さまざまな言い方や示し方がある。
アプリケーションのほとんどは刷り込みなんだそうだ。
お客さんは最初に接したアプリケーションに戻ってくるという性質がある。
時間的コストや機会費用からすると、新しいものを無作為に探し続けるよりは既にあるものや既に得ている情報から判断する方が合理的と判断する人間の傾向が関係しているからだろう。
それで、囲い込みの中にいる消費者は選択肢を知らないか、あるいは他のものを選ぶというコストをあえて取ることを拒否する性質がある。
特に宗教に近いようなロールモデルを与えて内的動機付けを担保にするような種類の、ビジネスにとって理想の『FREE』はこういった性質を持ちやすいと思う。
FREEは良いのか悪いのか
悪いと思う。
良悪で語ることはナンセンスであることを承知であえて言うが、悪いと思う。
日本では2chという非常に有名な、国内のローカルな情報を網羅する口コミ掲示板のようなものが存在するが
あの存在が書籍出版とかを通して表にも知れ渡るような流れに対して、かなり反発する人たちもいた。
その中の一発言の中には
『便所の書き込みは便所の書き込みだから面白い。だいたい外じゃおちおちズボンのチャックも降ろせない』
後半のズボンのチャックの意味は置いておいても、結局しかるべくところに収まるべくして収まるからこそ必然で生まれてくるものであって、結局のところカウンターカルチャーなのだ。
カウンターカルチャーというのは大きなストリームがあってこそ存在感を発揮する。
ようするに、エネルギーとしては反存在のようなもので、互いの関係が薄まれば存在が消えていくようなものだ。
時代は『FREE』へ流れていくのか
結論から言えば、時代は『FREE』へ流れていくことはないと思う。
世界は成長することを前提としていて、ITはその促進剤だ。
FREEはその副産物であり、彼らの煽りを食う音楽業界だとかジャーナリズムなんてのは、同じ穴の狢で副産物同士なのだ。
アプリケーションもソフトウェアも隙間を縫ってるだけで、実際のところ製造業の域を超えられていない。
ITは製造業で、サーバールームやPCは新しい工場の形態の一つであり、プログラマは工場労働者なのだ。
『FREE』がもたらした恩恵は、機会費用を均等にしたことだ。
その本質は、ビジネスとしてとかエコノミーとして利用するという意味ではない。
あらゆる階層の人間があらゆる情報にアクセスできるようになったことで
・『教養』
・『人格』
・『教育』
・『文化』
といった、どちらかといえば人間の人間足らしめる根源的な部分がより洗練されていく方向性を目指している。
これは何を意味するのかというと、簡単に言ってしまえば人々の生活のスタイルが今一度18世紀のスタイルに戻るということだ。
産業革命によって土地を追われた農民や漁師や、重商主義の発展によって地方から集められた人間が、ITによってもたらされた『FREE』の力によって解き放たれることを意味する。
それはいわゆる分かりやすい『ビジネス』だとか『経済成長』や『GDP』という指標によって現れるものではない。
むしろそれは『自殺率の低下』や『国民総幸福度』といった、ニューワールドにおける新時代の指標であり
元来計測不可能とされてきた分野におけるデータの分析を可能とする潜在的な人間の持つ需要の掘り起こしを意味する。
昔はうつ病は甘えなどと言われていたが、今ではそれが明確な脳の病気であることはここ十数年で明らかになってきた事実であるし
認知症やアルツハイマーといった高齢者特有の障害に対する啓蒙が進んだことや
人間の経済活動に関する心理学を取り入れたデータや行動や感情を定量化して分析し、それを実社会に還元することができるようになったのは
一重にITや計算機の力が大きい。
元来戦争で弾道計算に用いられてきた技術が、最終的にこのような形で人間の文化や生活の根本的な改善に用いられていくよう期待するのはまちがったことではないし、『FREE』という文化が苛烈な資本主義や過渡的な競争の中で、人間の本質的な生に対する欲求や実現を求める気持ちから生まれたカウンターカルチャーであることを考えればそれは間違いなく社会にとっても個人にとっても良いものだ。
その実体や実績や振る舞いの個々が必ずしも良いとはいえなかったとしても、だ。
だが、『FREE』の著者や『FREE』という概念を新しく再定義しようと試みる彼らのスタンスは
ほとんどがその資本主義出身の意見だ。ビジネスという観点から『FREE』という文化を見ようとする限り、必ず彼らは自己矛盾に陥るはずだ
(※実際、そうなっている)
面白いのは、ジャーナリストたちの本質も『FREE』の追求とカウンターカルチャーであったことだ。
叩くべき対象や取り上げるべき対象がいてはじめて成立するジャーナリストやマーケターは、実は『FREE』が本質的に自分たちが生まれたところと同じ場所から生まれてきたことに気づいていないように思える。
この本を読んでいてジャーナリストたちが『FREE』の存在をきちんと捉えられているように思えないのは
実質ジャーナリストたちが生まれてきた根源と同じところに『FREE』が存在するからで、
要するに『FREE』についてよく考えて分析しようとすることはジャーナリストの成り立ちそのものをよく分析することと同じだ。
他人について取り上げることに慣れていた彼らは、FREEのことがよく見えないのは当然で、実は形態が異なるだけの同じ“思想”なのだ。
ジャーナリズムとWEBから生まれた“FREE”とで決定的に異なるのは
ジャーナリズムは世間に対して訴えかけたことであり
FREEは独自にシステムによって解決を達成したことだ。
FREEは使命と役割を持って社会に生まれたカウンターカルチャーであり、いずれ役目を終える
FREEが役割を終えたときに、世界はいま一度高度経済成長や重商主義、そして工業化といった資本主義がもたらしてきた大きな成果を整理整頓し終えることを意味しており、その頃には人々は自分たちの歴史の中での立ち位置や存在というものを客観的に見つめなおすことが出来ているはずで
それらが終了したときに、ようやく新しい方向性が見えてくるのだ。
そしてそれは結局のところ、実需を生み出す製造や農業や化学であり、高度経済成長期に多くの企業が見失い失敗してきたことを、今度はより上手によりスマートに行えるようになるということに過ぎないのだと思う。
それはいわゆる社会で存在していた多くのねじれ構造や複雑化した社会を一旦整理して整えなおし、再編することを目的として社会に必然的に生まれてきた時代の寵児であり、潜在的な需要を呼び起こしたからこそ爆発的な成長を遂げた。
それを既存のフレームに押さえつけるための闘いに勝者となったのがビル・ゲイツで、彼は既存の資本主義の世界で自分のカードを守って上手に上がっただけ。上手く逃げ延びて億万長者になった。
現在のFaceBookやドワンゴやWEBそのものの流れこそが『IT』と呼べるものであり
ビル・ゲイツはITの神様ではない。製造業の神様なのだ。スティーブ・ジョブスやソフトバンクの孫社長も同様。
ITの行く末はどこへ向かうのか
いわゆる世間で言われているIT需要などというものは実体のない経済であり、一過性のものである。
カウンターカルチャーのように、世界中の情報を整理し終えた後、世界に莫大な財産を残してその役目を終える。
それは偉大な功績となるが、本質は国立国会図書館のようなもので『資本主義』という枠組みの中で捉えるべき性質のものではない。
SNSや『FREE』も同様だ。
大きくなりすぎた組織は名前が変わる。それが企業と呼ばれるのか、国と呼ばれるのか。
成り立ちの違いはあれど、枠組みの変更が必要なのだ。
IT化の代名詞であり文化でもある、SNSや『FREE』が資本主義に利用されることはない。
むしろ資本主義がSNSや『FREE』に利用されているのだ。
だがそれは資本主義にとって悪いことを意味しない。
何故ならば、IT化や『FREE』が目指すことの行き着く先には、ある程度の『資本主義』にとっての効用がきちんと内在されているからだ。
目指すべきものや思想が資本主義と『FREE』では異なるため、対比や対立構造に簡単には置けないような仕組みになっているのだ。
よって『FREE』が目指すものを達成する上で資本主義と『FREE』がある程度の共生関係にあることが望ましいとするクリスの判断は正しい。
だが、ビジネスにおいて『FREE』を“上手に利用している”などという発言が現れるのであれば、それは危険な兆候だ。
『FREE』は資本主義を目的達成のために利用することはあれど、助けることはない。
これは著者が「結局アダム・スミスは正しい」と述べていることからも分かる。
『FREE』はその思想にしたがって、市場原理の中で自身の使命を達成しようとするだけだ。
資本主義は格差を作ることがその本質であるのに対し、FREEが目指すのは既存の枠組みからの脱出であり、人間に対して良い意味での自由と平等を目指すからだ。
それは対極の概念であり、世界には必ず左といったら右という奴が必要であるように、必然として存在するカウンターカルチャーであって『FREE』が世界を牽引することはない。
よって、クリスが上手に『FREE』を利用しろ、と述べているのは正しいが、おおむねそれは“『FREE』の存在を黙認せよ”と言ってるだけに過ぎない。
芸能人が物まね芸人の存在を黙認しろ、と言ってるだけで、積極的に活用できるようなツールではないことを肝に銘じるべきだ。